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2025年 6月 15日 文理選択
むかしむかしのとある世界。彼らには「選択権」が無かった。
子供は親の所有物で、言う事を聞かない子があれば殺してしまえという世界である。
すっかり子供は「道具」であり「人形」となる。
私の師曰く、これは後にこどもの日への制定に一役を買う文化となるらしいが(諸説あり)、つまりはそんな時代があったのだと云う。
一方、現在を生きる私達の目の前には、かつては有り得なかった「選択権」が腐るほど転がっており、それはかの有名な言葉「人生とは選択の連続である」からも想像に難くない事である。
しかしこの現実は、返って自由すぎる不自由となって我々の手を頭へ誘う訳である。
昔を思えば、この自由に希望こそ抱けども頭までも抱えてしまう必要は無いのではないかと。
ふとそんな事を考えところで、前談。
こんにちは。白石人生です。
本文は、日々多忙な青春を謳歌しつつも、この未来を大学受験という茨の道への進出に決めた少年少女等に「文理選択」というテーマでお送りするものであります。
とはいっても、人に依っては全くもって興味がそそられない今回のテーマ。
夢が決まっていたり、好きな学問がはっきりしている人達には縁の無いものです。
では、どんな人たちがこの自由に悩まされるのでしょうか。
そしてその悩みはどう解決できるのでしょうか。
あくまでも一個人の意見として、皆様の参考になれば幸いです。
1.将来やりたいことが決まっていない
耳にタコができる程に「将来を考えて大学を決めなさい」と似た言葉を聞きます。
昨今では、人生とは選択の云々...よりも有名な言葉として一世を風靡している事でしょう。
決まっていないのに。
この場合は「得意科目」で受験するべきでしょう。至極当然の選択です。
どんな学部に...と悩む気持ちはありますが、大学だけがすべての学び場ではありません。
このご時世、世の流れに乗り、とりあえず大学に行くなんてこともザラにあります。
もちろん褒められたことでは無いですし、出来れば目的意識をもって日々の学業に勤しみたい。
とはいえ、それを目指した結果が、考えすぎて動けない。では本末転倒も良いところ。
とりあえず始めはテキトーでいいんです。勉強をしていくうちに、日々何かに触れていくうちに、ふと湧き上がる物があれば、その時またその気持ちに従うのがベストでしょう。
結論、将来やりたいことが無い人は「得意科目で文理を選択すべし」
2.得意科目が無い
とはいったものの、得意科目が漠然としない諸君にとっては、またも頭が痛くなる話だったりするでしょう。
そんな時は「自分が思うかっこいいを目指す」なんかは一つの動力源に成り得るのではないでしょうか。
今は全然出来ないけれど、出来たらかっこいいなとか。
自分のあこがれの人は、どんなことが得意だったかなとか。
私は理系ですが、その昔は「理科科目ができる人ってなんだかかっこいいかな」なんていう酷くぼやけたところから、徐々に理系科目が得意になり、果しては吸い込まれるように、最早選択肢など無いかのように理系へと進んだものです。
少ししっかりと思い出すと、理系科目にばかり現を抜かしたあまりに社会科目に皆目見当がつかなくなった結果、文系から逃げるように理系の道へ進んだ気がしなくもないですが、なんにせよそれで今を生きている訳ですから、何の問題もない。
何度も言うようですが、とりあえず始めはテキトーでいいんです。
いざやりたい事が決まって、その道に進みたくなった時は、その時に頑張れば大丈夫です。
何をするにも遅すぎる事は無いですし、何をするにもやり始めた時が最速なんです。
結論、得意科目が無い人は「自分が思うかっこいいを目指すべし」
3.すべてに興味がある
今までと違い、前向きな理由で頭を抱えてしまう場合です。
簡潔に、「全てを極める」のが良いかと思います。
何も自分で、自分の可能性を狭めてしまう必要はありません。
興味がある事が多いのであれば、例えそれが実際に受験する大学の入試科目に含まれていなくたって、勉強してしまえばいいのです。
時間が足りないとか、効率が良くないとか、言わないで。
これは持論ですが、勉学とは「受動」より「能動」である方が伸びます。そして、この勉学というものに「大学受験」という価値を見出してしまうと、多くの人が途端に受動的な勉強をし始めてしまうのです。この大学にはこの科目が必要だから、この単元が出やすいから、etc。
ある意味で勉強をやらされている。
一方で、単純な好奇心からくる勉学については、もちろん自ら求めに行くことになりますから、これはまさに能動的。
結果的に、勉学の成果というのはそこまで変わらないどころか、後者の方が良い結果に繋がったりします。
つまり、心のままに、その全てをやってしまおうということです。
本日はここまで。